【稽古場対談】 消費されない身体を求めて

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©ARICA

藤田:ARICAが広太さんにこの作品の出演をオファーしたときに、広太さんに「動かないダンスに興味がありますか?」とお尋ねしましたら、「ダンサーにとっては、動かないことに興味がありますね」とおっしゃられて、動かないという視点から、新しい舞台の方向が探れるのでは、と思いました。

広太:既に10代の頃から、パブリックな場所で、なにか他人に気付かれないムーブメントがあるのでは?と考えていました。例えば、電車の中で、稽古したい(踊りたい)のに自由に動けないけれど、動かずに稽古できるのか?そのような状態の動かない身体が舞台に乗ったら、どういうことになるのかな?ってことを。

安藤:役者もセリフを覚えなければならないときに、電車の中なんかで、周りの人にバレないようにやるわけですけど、必要があって発想があったのかと思うと、面白いですね。

広太:あるとき、普通の人の身体と舞踏やってる身体、果たしてどちらの強度が強いのか?と実験してみたことがあるんですが、経験の無い人の、何も考えていない、何処に目を向けているのか判らない、そこにあるただの身体という存在感、そういう身体の強さの方が勝ってしまうことがわかりました。では、テクニックを持っている人が舞台で、「ただそこにある身体」をやるということは、どういうことなのか、そこから「ペデストリアン」と僕が名付けている発想が生まれました。(*pedestrian=歩行の、という意味以外に、平凡な、ありふれた、ありきたりの、という意味がある)意識を集中している状態で、いかに日常の動きができるか、その身体で舞台に立てるか?非常に興味がありました。

藤田:朋子さんは、今迄も歩くことを中心に舞台をされてきて、ゆっくりと歩くことにかけては、テクニックもさることながら、意識の置き方がユニークな方だと思っていましたが、広太さんが稽古場に来られた初日に、まず「歩く」ということをやってみたら、広太さんは、朋子さんとは別の方向性をあっさりと見せてくれて驚きました。それが広太さんのおっしゃる「ペデストリアン」で、日常の中にある身体の在り方を基調にしながらも、ただ普通にやるのではなく、たえずポジションを揺り動かしていく、そんな印象でした。

安藤:稽古初日の広太さんの歩行には、「なんだ、これは?」という感じで、その場にいた全員が息をのみましたね。

藤田:非常にテクニカルなダンサーの身体のラインとか、造形的な美しさとかは凄いと思いますが、私の興味はそこではないんです。人それぞれの好みだと思いますが。広太さんは、立ったり、歩行して前進している状態でも、細かな意識の変化が身体を動かしている。そこに見えてくるのは人であり、広太さんそのものなんですね。広太さんの最初の歩行をみたとき、ダンスでも演劇でもない、ある男が様々な日常のなかにいて、生きてきた歴史が瞬時に舞台上で移り変わったというようなことを感じました。今まで広太さんが生きてきたことを、歩行だけで表すことに感銘を受けたのです。そのことは、サミュエル・ベケットの登場人物に共通するんだと、始めて気付きました。ベケットの多くの登場人物は、死にかけて身動きがとれない、しかしそこに、生きてきたその人の時間がある。全てが失敗し不幸のどん底にあって、さらに自分がいかにひどいかを、誰かから聞かされたりするんですが、私が思うに、にっちもさっちも行かず、不幸と死の淵で震えているような舞台上の人物が、ある時微かに生の方に反転して、瞬時にその人の人生が見えるようになる。そんな様相が、ベケット的ではないかと。広太さんの基本的な在り方はベケットの存在の仕方というものに対して、1つの回答になるんではないかと確信しました。

広太:この「ペデストリアン」という試みが、僕がソロの舞台で踊ることではなく、演劇や、ベケットというある視点を通して、演出家・藤田さんにアレンジされること、そこから、このムーブメントが開花できないか、ARICAとのワークで探っています。

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藤田:広太さんは、昨日もリハーサルを撮影した映像を見ていて、「acceptしなくては」とおっしゃっていましたが、まさにその通りで、我々がARICAとしてやっているときも、その場の状況を受け入れることが大切だと思っています。舞台をやるたびに、毎日色んな気配が違って、それをどう捕まえるかが大切で、最終的には、舞台に立つパフォーマーが、それを受けいれて、反応しなくてはならない。舞台にたっていても、様々な意識が渦巻いている、その意識の粒立ちのような複雑な膨らみが舞台の人間を豊かにする。反面、パフォーマーがどんどん一方向に集中すると身体が閉じていって、ノイズが消えて外に見えているものが見えなくなる。その点、広太さんの動きは、たえず受け入れながら出していく「出し入れ」なんですね。舞台上のパフォーマーが、受け入れて反応する、受け入れる身体、呼吸というか、神経が震えている感じが重要なのかな、と思います。

広太:何か意識的にやろうとしない、頑張ろうとしない、ということが僕は舞台で必要だと思っています。やるけど受け入れて、一度戻る。少し視点が変わりますが、僕は「消費されない身体」を求めています。カテゴライズできてしまう瞬間に理解され、納得されてしまう身体ではなく、カテゴライズをすり抜ける身体。今まで、色んなダンスをやってきました。舞踏、アフリカン、モダンダンス、バレエ・・・それらのジャンルを記号化し、また再構築しようとしたとき、僕にとっては、どうしても、ペデストリアンな動きがはいってくるんです。

藤田:カテゴライズできない=素人の動き、というのではなく、ゆるさとは違うプロフェッショナルなダンサーだからこそ持つ可能性。実際、広太さんは、安易な感得を許さず、模倣できない身体の分裂的な震えが、身体を動かしているように見えます。

広太:絶えず、瞬時に分裂しています。藤田さんのダメだしが結構あるから、ね。それがいい。どんどん分裂していく方向にいくんだけど、分裂がそのまま見えても面白くなくて、さらに分裂を繰り返して、そこから自分の個が出てくると思っています。

安藤:例えば、ポケットに手を入れてみるなんていう、日常の行為が、それが抽象化されてダイナミックさを感じるというのは何なのか、その謎は何だ?と思っていて・・・単なる造形的な美ではなく、外側で作ったかたちではなくて、広太さんの意識、神経がビビッドに反応して、それが伝わるのではないかと思います。

広太:ただ、ね。内心、ペデストリアンな動きをしようとする瞬間というのはダンスの持っている時間とかなり違って、すごい勇気がいるんです。そこの勇気が見えるのかな?普通にやっていることなんですけど。

安藤:空気がふっと動くんですよね。

藤田:普通のダンスのムーブメントをする時と、ペデストリアンとどう違うんですか?

広太:やっぱり何か拒絶する感じっていうのか、状態をスウィッチする感じですかね?そして次に向かうというか。

藤田:通常のダンスというのは、拒絶ではなく、繋げていくって感じ?

広太:そうですね、時間が持続して変化していくような感じといいますか。あるシチュエーションの中でやっていく。何かお膳立てされて、徐々にメタモルフォーゼ(変容)するというか、ペデストリアンを入れようとするときは、絶えず、今やったことと全く違ったものを身体に入れていくので、すごい勇気がいりますね。

藤田:面白いですね。それはパフォーマーにとって、ベーシックに必要なことなんではないでしょうか。ある形になってしまう、狭いところに身体を押し込めてしまうんではなくて、狭いところに、全く違ったものをふりかえていく作業って、不安も含めて身体に現れてくるから。

安藤:私も真似してみようと思ったけど、無理だった(*^m^*)。

広太:でも藤田さんの「分裂的」という言葉は、ムーブメントをやる上でいい助言でした。

藤田:今回の作品は、構造が明快ではっきりしていて、繰り返しがベースにあります。パフォーマーは、絶えず受け入れて反応する意識、それを受け入れる余地をつくる、受け入れる身体にしておくことが重要。そのフレキシビリティをどういう意識のレベルで、どういう強度で表すのか、ARICAと広太さんの挑戦を見届けていただければと思います。

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photo:Ryuji Miyamoto


(2013年2月13日 稽古場にて)