高橋永二郎

め と え のあいだに


 まず最初に、柄にもなくキャッチーな詩人風のタイトルを付けたことを深くお詫び申し上げます。野暮を承知で言えば常識的な視線を解体したいわけですよ。


 そう、視線。


 前回、シャルダンの絵画では視線が構成要素として頻繁に導入されると書きました。まずはそれを確認するところから始めたいと思います。


食卓2.JPG


 無計画に「勝手に四行詩」なんて書いてしまったので早くも2度目の登場となる《食卓》という絵です。暗くて解りらいのですが、画面右上に鳥がとまっており、犬とお互い見つめ合うような形で視線が形成されています。この絵で犬と鳥の相重なった視線は、画面の中心となる果物へと向かう観者の視線と交わる形で、ほとんど補助線でも引いたのかというくらい明確に「線」として機能しているように見えます。(ちなみにここでも積み上げられたフルーツと白い布の輪郭に伝家の宝刀「平行線」が認められます。これにより動物たちの視線をかいくぐり手前に現象したり、逆に奥に引っ込んだりフルーツのアピール度合いも変化します。)

 しかし、そもそも「視線」とは何なのか。例えば視覚にまつわる様々な教科書や解説書ではこんな図がよく載っています。


目線図.JPG

 今、目の前にコーヒーカップがあり、私はそれを見ている。ここに図のような視線はあるのでしょうか?ん~何とも言えない。線の部分はわからないでもない気がするけど、あの矢印の部分は何だ?そういえば中学の時の友人が「オレは視線を曲げられる。」なんて言ってたなあ・・・。


「抱きしめて 揺れる瞳に 熱い視線つらぬいて」


 これは安全地帯『熱視線』のサビにあたる歌詞ですが、「揺れる瞳」つまり困惑する彼女に、矢のごとき視線でトドメを刺しキメ込もうという男心が歌われています。コーヒーカップを凝視してもなかなかそれらしきものは確認できませんでしたが、玉置浩二クラスでなくともこの表現には思い当たるところがあるでしょう。同じように「目を配る」や「視線を投げる」などという言い回しも視線の矢印を表現したもの、身体イメージとしてごく自然に理解できます。このことから同じ感覚器官でも耳、鼻、舌、皮膚と比べ、目にはほとんど「行為」と呼んでも良いくらいの身体イメージが伴っていることがわかります。そして視覚における身体イメージとは「見ること自体」の空間化にほかなりません。


 ここでひとつ疑問。同じ身体イメージで考えれば当然、図で見た矢印の向きは逆もありうるのではないか。

 例えば「目撃」です。これは明らかに「目」が「撃たれる」こと、つまり行為というよりは受動の表現です。そもそも「見る」の受動系は「見られる」のはず。別に見られているわけでもないのに見ることの内に受動性が含まれているとはどういうことでしょうか。そこで目撃という表現がどのような状況で用いられるかを考えてみます。

 まず端的にそれは「状況」というより「何を見たか」、つまりは対象に左右されることがわかります。自分の健康状態や気分、対象との距離には無関係に用いられます。では何を見ることなのか。

 犯罪や事故や浮気の現場がまず思い起こされます。「現場」という言葉が物語るように、そこには圧倒的な事実性があるように思われます。自分がたまたまそれを見たということだけでは、増えも減りもしないような客観的世界の事実が目に飛び込み、押し寄せてくる。そして客観的世界と同様、そこには客観的時間における決定的瞬間ないしは現在性という意味合いも含まれている。これは「〇〇を目撃せよ!」という生放送番組のキャッチフレーズや、オリンピックや災害のTV中継などにも「目撃」という言葉がしばしば用いられることからも理解できます。行為する主体、自己の存在さえ霞む漠たる世界の「現実」が目の前にそびえ立つと言うわけです。

 ちなみにこの目撃性は「何を見たか」つまり対象の意味内容に依拠するため、例えば「まぶしさ」に受動性を感じることとは別けて考える必要があるという点に注意しておきたいと思います。


 ところでこの矢印の向きをめぐる視覚の働きは古くから哲学の分野でも多く扱われた問題でした。例えばプラトンは次のように言っています。


「神々は、およそそういったもの(光)が1つの物体になるように仕組んだわけなのです。というのは、われわれの内部にもそれと兄弟分の純粋な火があるので、神々はそれが眼を通って流れるようにしたのでして、(中略)それが他の、自分より粗大なものはすべて堰止め、先に言った純粋なものだけを、自分が純粋であることによって濾過するようにしたのです。(中略)眼から一直線上に、どの方向にせよ、内から出ていくものが外界で出くわすものと衝突してこれに抵抗を与える、その方向に向かって、一つに馴染み合った物体が形成されました。(中略)それらのものの動きを、全身を通って魂にまで伝達し、われわれが、それによって見ると言っているところの感覚(視覚)をもたらしたのでした。」


 プラトンが言うには、私たちの内部に、外界に満ちた光と同種のもの(プラトンが純粋な火と呼ぶもの)があり、それが一直線上に(!)外界に向かって流れ出し、物体の上で光と衝突する。そのことによって一つに馴染み合った物体(固有の形と色をもった物)が見える、ということらしい。もちろんこの言説の背後には彼のイデア説があり、見る角度や光の加減によって決して同一でない筈の対象に固有性を与えるにはイデアによる「濾過」が必要というわけです。「純粋な火」が眼から流れ出すというのは、いささか奇妙な考えだと思うかもしれませんが、私たちも「眼光」なんていう言葉を使いますし、目からビームを放つロボットを自然に受け入れられることからも感覚的には理解できると思います。

 矢印の向きで言えば、プラトンの主張は流出説と呼ばれています。もちろん流入説を唱える哲学者もいます。流入説と流出説は「なぜ物は見えるのか?」という問いとともに、外界の実在をめぐる議論として多くの哲学者によって語られてきました。しかしこの問題は難しい。問い自体の捉え方もさることながら、条件となる生理学的根拠も全てが解明されている訳ではありません。

 視線が直線だという主張に関しては、なんだろう、視線を曲げられるという友人のアーバンジョークに匹敵する違和感がある。同じようにユークリッドなんかも視線を幾何学的直線と定義していますが。確かに小説なんかを読んでいても一つ一つの文字に焦点を合わせれば、隣の行にある文字さえしっかり捉えることは難しい。視界が目という点から開けており、対象も点として現れるとすれば、当然2つを結べば線になると、そう思えるかもしれない。しかし、やはり疑問がのこる。

 そう、全部が全部ではないとはいえ実在論や認識論をめぐる哲学、あるいは生理学も実は身体イメージに過ぎないのものを前提にしているのではないか。だとすれば、なぜそんなイメージが生み出されるのか。


「あの子の前を上手に通る癖覚えたのは もうずいぶん前の事 長いなぁ あなたの視線追うと必ずいるあの子の前を 通り過ぎてる事であたしに気付いてほしくて」


aikoの『アスパラ』の歌詞です。・・・コレだ。そう、コレなんだ!「見ること自体」の空間化=視線という身体イメージには他者性が要請されるのです。

 aikoさまのこの歌詞が言い当てているのは、他者と彼の対象の2点が「外界で」結合していること(故に線を結ぶ)と、それを見ているはずの自分自身が「他者にとっての外界」の1点として代理可能であるという認識です。しかも「あの子の前を上手に通る癖」という言葉からわかるように、行き着くところ「特定の他者の視点」すら介在しなくなる(!)という事態を告げています。

 つまり、視線とは、自身の身体的な欲望(行為性)と、他者の認識を経て客観化(内面化)された視点が重なるところに成立するのではないか(この視点を手に入れればこそ花火を見下ろすことも可能になるのです)。不躾ながら「他者の認識を経て客観化(内面化)された視点」というのを説明しますと、あたしはあなた(彼)が好き≪だから≫見る→あなた(彼)はあの子を見る≪だから≫好き、この本来因果性が逆転しているはずの好きと見るを≪だから≫において等しいものとして扱うことです。従って「あの子の前を上手に通る」という企ては、因果性を逆転できたこと、つまり≪だから≫自体を彼の内に目覚めさせようというものです(あるいは目覚めさせようとしていることに気付かせる)。本当は因果性を逆転できたことに理由があると知りながら・・・。おそらくこんないじらしい歌詞は若者でないと共感できないんじゃないか。人は額に掛けたメガネをさがすように、いとも簡単にそれらを内部化してしまう。

 ここでは同時に存在論や認識論を複雑なものにしている「子供から大人へ」という問題が浮かび上がってくるように思います。そう、このような身体イメージはいつからか獲得されるものなのです。

 例えば、中学校2年生にもなると「さすらう」ことを覚え、夜道を一人歩けば「ここに一人の男がいる」というナレーションとともに自らを俯瞰するアングルを獲得できるようになります。私自身、当時それを「ナルシシズムカメラ」と名付けましたが、その時の経験は、それがまさしくその時に獲得されたものだという成長の証、人生の悦楽感として記憶に結ばれています。

 噛み砕いて言えば、客観性が持てるようになる、ということなのですが、プラトンも先ほど引用した中略の部分で「自分自身が何に接しようと、また他の何ものがそれに接しようと」という言葉で物の客観的性質を語っていたのでした。

 しかし、あえて再び言えば、ここで獲得されたものは「イメージ」に過ぎない。


 人は時にこの合目的的な視線に疲れる。自分が投げかける視線であっても、他者によるものでも。「海が見たい・・・。」という恋人達はそのことを知っている。海か。押しては引いてゆく波にこの目を委ねるのも悪くない。

 だがしかし、どんなに鋭い眼光をも寄せ付けない「あの」漆黒には適わないだろう。あらゆる視線を挫き、イデアの光明など決して寄せ付けないもの。


それは死です。


 

死んだ兎と獲物袋.JPG

 

 シャルダンは若かりし頃、友人から死んだ兎を譲り受け、それにいたく感動し以後静物画を描くことに専念するようになった、というのは彼を語る上で欠かせないエピソードです。

 この絵では、シャルダンにしては比較的大きな画面に死んだ兎の四枝が全面化=前面化しています。曖昧な背景や、毛皮部分の粗い筆致からは、あたかもシャルダンが手にした兎の死そのものをひらすらに定着させようという意図が無骨さとともに表れているようです。狩りの獲物を描くことは当時の静物画家にとって珍しいことでないばかりか、画家の有名無名を問わず無数の作品が存在しています。しかしシャルダンのこの作品はその表現において異様といっても良いものです。

 シャルダンにこの絵を描かせることになった、死んだ兎のエピソードとは一体何を意味するのでしょうか。

 それは今まで述べてきた身体イメージとしての視線という観点からは自明であるといえます。そう、そのような視線では決してこの「死」を捉えることができないのです。このことは「概念一般が目には見えない」ということとは違います。マルセル・デュシャンの墓碑銘には「死ぬのはいつも他人ばかり」という文言が刻まれているそうですが、兎の死もこのような文脈で理解されるべきものだと言えるでしょう。また、この兎は友人から譲り受けたもので、シャルダン自身がかつて獲物として欲望し殺めたものではない、という点も影響しているかもしれない。

 身体的な欲望(行為性)と他者の認識を経て客観化(内面化)された視点が重なるところに「視線」が形成されるのだとすれば、客観化(内面化)が絶たれている以上、私はこの死を目撃することすらできない(世界を決定できない)。にもかかわらず私たちはやはり死という「何か」を見ている。ここで私たちは身体イメージとしての視線を放棄せざるをえないのです。

 しかし、疑問は残ります。1つには、例え「死」が客観性の破綻を意味するとしても、言語を持たない動物である兎がその破綻の前提となりうるかという疑問。2つめには、仮に兎の死を前にした「実際の経験」が視線の不成立を意味していたとしても、それが直ちに「死を描いた絵」にも呼応するかという問題。このことには厳密を期さねばなりません。1枚の絵を見るだけで、既に獲得された視線を放棄し「名付けようもない見え」に立ち返ることなど可能なのかどうか。


 1つめの疑問の答えとしては、たしかに動物は言語を持たないが「生の様式」を共有している、というものです。彼らは「見る」や「食べる」など明らかに共有できる生の様式を持っている。ヤツらが丸裸だからといって服を着せることが共有ではありません。むしろ食べ物を奪われたり、それと分かる威嚇をされたり、同じリング、共通の世界で「私たち」と対立するが故に、ヤツらは可愛いのです。少なくともシャルダンが《食卓》において、彼らの目を用いて視線を形成させたという事実はこの説を裏付けてくれるでしょう。

 彼らの「死」に関して言えば、その処理が儀式化している人間よりもより「剥き出し」の問いを投げかける点で際立っているのではないか。十字架に張り付けられたキリストやダヴィッド《マラーの死》のように、人間の死は往々にして目撃性に回収されやすい。それは事件、つまり「死体」として。動物の場合、もし自分の手元に彼らの死があれば、「どうしよう、どうにかしなければいけない」と思うでしょう。それは「私だけに」預けられる。(人間の死も、共同体による埋葬の文化があるとはいえ「本当は」個人的に弔わねばならず、実際そうされているのではないかと私は思っています。)


 そして2つめの疑問に関して。私自身は、先に挙げた「無骨な粗い筆触」や「曖昧な背景」という大胆な表現方法から、実際の死に匹敵する、つまりリアリズムとしての死を感じますが、それはどちらかと言えば、これ以降のシャルダン作品で培った「見え」から遡行した結果だと言えます。逆に言えば、この「死を前にした名付けようもない見え」は、シャルダンの絵画経験と重なり、以後の画業にも決定的な啓示をもたらしたのだと思っています。

 シャルダンの後期作品について、ディドロは次のように言っています。


「ほかの画家たちの絵を見るとき、私はなにか別の目を借りる必要を感じる。だが、シャルダンの作品の場合、私は自然の女神が与えてくれた目をもっていればよく、それをうまく使いさえすればいいのだ。」


 さすがはディドロ、あっぱれではないか。行間を読むまでもなく実に簡潔に本質を言い表している。このコラムでは、今後いかにシャルダンがそのヴィジョンを開花させたかを追っていきますが、さしあたって兎の死を写し取ったこの初期作品には「その萌芽」があると言っておきたいと思います。

 銀製のスープ容れ.JPG


 今まで長々と議論を迂回させてしまいましたが、私がここで展開した理屈は決して実感に逆らうものではありません。私はここ3ヶ月の間にコウモリ、鼠、鳥と3つの死を手にとって眺める機会がありました。しかし過去の経験もあわせ、何度見ても「それ」は見慣れない。そこには見慣れることを拒む性質の何かがあります。ついさっきまで動いていたであろう手足、しだいに凝固する体。まもなくそれは記憶の中に沈み行き、想起することしか許されなくなるでしょう。例えようもない時間の移ろいだけがすべてを決定しているかのようです。

 生を失った抜け殻。しかしこの移ろいにあって、決してそれは物ではない。


 乾ききったシャルダンの絵具を見て思う。



つづく

番外編~勝手に4行詩~


食卓.JPG


地を這う者と羽をもつ者

その謎めいた邂逅に交差する

俺とフルーツとのファーストコンタクト

もう食べるしかない

 

 

 

-他者から自己(組織)へ-

 

 フランス革命の後、美術の時代様式がロココから新古典主義へと移行する中、しばらくの間シャルダンの画業は忘れられたものの19世紀にはゴンクール兄弟、20世紀ではマルセル・プルーストらを中心として再評価がなされ、絵画を志す者はもちろん、多くの文学者や美術愛好家に支持されながらシャルダンの名は現在では18世紀フランスを代表する画家の一人として語り継がれています。その賞賛は様々な観点や意義から手向けられるものですが、なかでも彼の静物画ほど人々の心を惹きつけるものはないように思います。神秘的な魅力を湛えた極めて簡素な静物画ですが、しかし、それは同時に非常に語りにくい側面を持っています。

 

「この魔術はまことに理解を絶するものであります。」

 

これはシャルダンの同時代人にして当代きっての知の巨人であるディドロが1763年のサロン評に書き記した言葉です。シャルダンの静物画を高く評価したディドロですが、画家に敬意を表する一方で、その絵に秘められた「謎」にお手上げといった様子です。続けてディドロはこうも言っています。

 

「近寄ってごらんなさい、すべてはこんがらがり、平べったくなり、消え失せます。離れてごらんなさい、すべては創り出され、再び形をとります。」

 

 私はディドロのこの文章を読んだ時、なんだか体がふわっと浮いたようなとても不思議な気持ちになりました。というのも、私がシャルダンの絵を初めて目の当たりにした時(1997年『ルーブル美術館展』東京都美術館)、まさしくディドロと同じように「画面に近寄っては遠ざかり」を繰り返したことを思い出したからです。並み居る名画家の作品には目もくれず、シャルダンのポスターを買って帰ったピュアネス・・・。

 初夏の淡い思い出ですが、展覧会場には私以外にも取り憑かれたように前後運動を繰り返すロココ人の末裔がちらほら迷い込んでいたと記憶しています。

 「魔術」という表現を用い、語ることを放棄したかに見えるディドロの言葉も、シャルダンの絵を目の当たりにした人間特有の真に迫るレポートと言えるでしょう。

 

 シャルダンの静物画の語りにくさ、北方絵画から現代に至る凡百の静物画との差異を明らかにする為に、前回までのコラムで見てきたようなシャルダンのリアリティ、絵画面と対峙した際の「連結と切断の感覚」を確認した上で、次のような絵が示唆を与えてくれるでしょう。


盲人.JPG


《盲人》。ここに描かれた男は盲人です。おそらくは日課なのでしょう、家々の軒先で施しを得ようと佇んでいる様子が描かれています。

 この絵の明暗配置に注意してみると、不思議な光が盲人の肩の辺りを照らしている事に気が付くでしょう。それはあたかも目の見えない彼が直に触れることのできる世界を照らし出しているようにも見えます。皮肉にも、それは私たちに「見える」ように描かれることで。

 もう1点、この絵で重要な要素は盲人の連れた犬です。(この犬は、この作品以前に描かれた《手仕事する母親》に登場する犬とそっくりです。シャルダンの絵では図像をそのままコピーして貼り付けたような描き方が目立ちます。同じような図像が異なる作品で散見されるのはシャルダンに限ったことではありませんが、シャルダンの場合、他の画家とは異なる理由からではないかという気がしますが詳細はいずれまた。)シャルダンは人物、あるいは生きた動物の視線を作品の構成要素とすることが多々ありますが、それらの視線は大抵観者には向けられません。しかしこの犬の視線は紛れもなくこちらに向けられています。

 私たちはこう思わざるをえないでしょう。

 

犬に見られている。いや、もしかすると私たちを見ているのは盲人かも知れない。

 

と。

 

 首につながれたリードを握るまでもなく盲人は犬の状態を把握しているように見えること、盲人と犬の首が等しく傾いていることで彼らの協調が示されていることから「見ているのは盲人かもしれない」という懐疑は強調されます。

 一心同体であるかのようにも見える彼らですが、ここで重要なのは彼らが「見る者」とそれを「知る者」に別けて描かれていることです。犬の意識をどう扱うかにもよりますが、ここでの盲人は「見る」ことはできないが、見ることが成し得る意味を「知る」ことができる主体として描かれています。

 前回《買い物帰りの女中》で申し上げた私の経験、すなわち「見ること自体(あるいはただ目に映ること)」と「見ている主体」の分裂が、ここでは複雑な空間構成を用いずとも明快に示されているように思います(示されてはいるが、観者の視覚経験としては《女中》ほど分裂はしない)。「他者の存在」への眼差しはそっくりそのまま「自己による認識」の問題でもあったわけです。

 当コラムでは前回、前々回と「見ること」を強調してきましたが、それは必ずしも素朴な「観察」を意味しません。その「観察」をも観察しなくてはならないという非常に不安定な足場から語らなければシャルダンの真髄に触れることはできない気がしています。

 

 五体満足であろうとなかろうと、私たちはその都度直面する環境の中で、なけなしの身体(とその拡張)でもって世界認識を作り上げる点で盲人と何ら違いはありません。私たちが手にすることができない器官や能力など山ほどあるのですから。

 (とはいえ、そのような事が言える地点は何処か、あるいはその認識を他者と共有できるものか、という問題は深刻です。私がシャルダンについて語ろうとしていることだって、あくまで解釈や妄想の域を出ることはないのではないか。まあとにかく偏愛を語るだけ語って伝わらなければ仕方がないとも思いますが。)

 シャルダンが《買い物帰りの女中》に自身のリアリティを投影したように、この盲人にさえ画家として共感を抱くことも当然可能なのです。

 しかし、ようやく足場の不安定さは浮かび上がって来たようにも思いますので、次回以降いよいよシャルダンのえも言われぬ静物画の世界を語っていこうと思います。

 

 では今一度暗転としよう。耳をそばだて、鼻を研ぎ澄ませて再び闇の中から浮かび上がるものを指でなぞろうではないか。私たちがかつて「見る」と呼んだそのことを。

 

つづく

 レストランでの食事中、「美味しいね~。」と恋人たちはしばしば私に相槌を求めます。不可侵であるはずの私の味覚へ忍び寄る影。うつむき口ごもる私をよそに「わたしこの店気に入った。また来ようね。」と微笑む彼女の見慣れたはずの顔は何マイルも遠くに感じられます。

 

 他者性について考えるとき、まず私の頭を過ぎるのはこのようなシチュエーションです。私と他者の間には、それがたとえ恋人であろうと深い溝が横たわっています。

 前回のコラムでは《カードのお城》という絵を参照しながら、絵画の劇場的構造と、描かれた人物の没入を読み取ることがかえって観者の視点の不可能性を示してしまうような演劇性について書きました。今回は、この「没入」を今一度精査するところからシャルダンの絵に現れる「他者性」を見ていきましょう。

 

-他者性-

 

 シャルダンは、「動物と果物の表現に長けた画家」としてそのキャリアをスタートさせます。初期の作品ではもっぱら死んだ動物と果物や食器などの静物が中心的な画題で人物はほとんど登場しません。人物を描き「没入」が見て取れるような風俗画は、1730年代半ば、彼の年齢でいうと30歳を超えたあたりから見られるようになります。そして、このような室内風俗画は、彼が静物画に回帰するまでのおおよそ20年間に集中しています。またこの間、静物画らしい静物画は新作としては描かれていません。人物を含んだ室内画への移行は、シャルダンがアカデミックな教育を受けていないため歴史画を描く素養がなく、静物画という当時のアカデミーの序列では下位に位置するジャンルより少しでも名誉を得られるジャンルを志向したためだとされています。前回取り上げた《カードのお城》はその中でも比較的早い時期に描かれた作品で、他にも遊びに夢中になる子供を描いた作品が同時期に多数描かれています。

 今回はじめに取り上げる絵は、1737年のサロンに《カードのお城》の対作品として出品された《羽子をもつ少女》です。

 

羽子をもつ少女.bmp

 

 この少女に見られるあどけない表情は《カードのお城》の少年と近しいものを感じます。この作品は、シャルダンが同時期に多く描いた「子供の遊び」というテーマの流れを汲んでいるのは確かでしょう。しかし、この少女は「没入」と形容できる、あるいはそのように感情移入できるような状態にあるのでしょうか。

 先のフリードをはじめ、しばしばシャルダンの絵は「没入の絵画」と言われます。彼の絵に没入が見て取れる場合、おおよそ人物と共に没入の対象が描かれています。それは組み上げられたトランプであったり、回転している独楽であったりと、それらが持つ緊張感や、出来事の空間を私たち観者に示しています。そして、それらの対象を前に人物の表情は他の視線を意識していないほどに没入しているように見えるのです。

 この《羽子をもつ少女》という絵で、少女の表情だけをもって没入と言うことは出来るかもしれません。そう言われるとそう見えてしまうのが人情というものですが、ここで私はその誘惑に逆らって「乖離(かいり)」という言葉を用いたいと思います。というのも、私はこの絵の少女を見たときに「心ここに在らず」という印象を受けたからです。ふと、今自分がいる場所、している事から意識がそれてしまうような状態のことです。

 少女のデフォルメされた胴体は、その形態からついさっきまで遊んでいたシャトルやラケットとの近似性を強く感じさせ、私たちに見えるもの全てと調和・充足しているように見えます。しかし彼女の眼差しは画面の外に向けられており、自らの体をも意識しないほどに、どこか漠然とした何かに向かっているか、あるいは何にも向けられていないように感じられます。当然、没入の対象は描かれていません。さらに、シャトルの半球と椅子の背柱に施された球体装飾の、その極めて不安定な衝突を包み込む彼女の左手の感覚は、忘れ形見どころか何処にも存在していない()ようにさえ見えます。

 ここでひとつ留意すべきは、「乖離」という語が、現実には精神疾患として重度の病的症状を含んでしまうことです。そして、その前提となる意味世界認識の安定性という常識にも注意しなければなりません。言うまでもなく病的症状と認識の安定性は補完関係にありますが、この対比に含まれる正常/異常、健康/不健康というイメージは、経験されうる事実には関係がありません。シャルダンの絵の印象として単独で用いるならば「遊離」としたほうがニュアンスは近いのですが、ここでは上記の注意を喚起しつつその語感から「乖離」を「没入」の対概念として捉え用いたいと思います。

 

 シャルダンはこの時期の作品で、どれほど自覚的だったかはわからないにせよ、没入と乖離を区別して描いていると思われます。なぜなら、(この《羽子をもつ少女》は例外的ですが)シャルダンは主に没入には遊びに夢中になる子供を、乖離には労働に従事する大人をと、それぞれに対応した人物をモチーフに選んでいるからです。子供の世界と大人の世界。この2つの世界は、決して触れることのできないような「他者の世界」として描かれることになります。

 

 次にシャルダンの絵画において、乖離がいかに没入と区別されたかを見ていきたいと思います。ここでは乖離の例として《カードのお城》と《羽子をもつ少女》が発表された翌年、1738年のサロンに対作品として出品された2枚の絵を見てみましょう。

 

居酒屋の給仕.bmp

食器を洗う女.bmp

 

 上が《居酒屋の給仕》、下が《食器を洗う女》と呼ばれている絵です。2作品とも労働に従事する大人を描いており、彼らの身体は今まさになすべき作業の真っ只中にあるのが見て取れます。彼らの身体は、おそらく日常的に接しその延長と言っても過言ではないような食器・道具類の中に違和感なく溶け込んでいます。一方で《羽子をもつ少女》同様、彼らの眼差しは画面の外へ向けられており、漠然とした何かに向かっているか、あるいは何にも向けられていないように見えます。日頃からのルーティンワークがそうさせるのでしょうか、ここでも彼らの表情は「心ここにあらず」といった様子です。何か呆然としている人物に対して「何を考えているのか?」というよりは「何処で考えているのか?」とでも問いたいような気がしてきます。というのも、彼らの身体は、その身体と等しく存在しているような食器や道具などとともに、まざまざと私たちの目に晒されているにもかかわらず、見れども見れどもその身体の統御するはずの主体のようなものに輪郭を与えることはできないからです。

 私たち観者にとって、もしこれらの人物に自己を投影するなら、ちょうど「家に着いたはいいが、道中の記憶がない」という時の道中の意識を外側から見ているような感じがします。よほど人生経験の浅い子供でもない限り、彼らの状態を自身の経験と比較して「察する」ことは難しくないでしょう。しかし、そんな忘我状態は事後的に「欠如」として認識されるべきもので、目の前にいる人物に自身の経験を重ねるのは不思議な事のように思えます。あるいは眠っている人物以上に、彼らの意識は「そこ」にないような気がしてきます。その意識の所在は決して突き止められず、ふと我に帰ればただこの絵に描かれた像をボーっと見つめている私たち自身の意識に気付くかもしれません。

 

 このように乖離を描いた絵画を観る際の、視線を画面に誘導しつつもどこかイメージとの距離を感じてしまうような経験は没入の絵画に非常に似ています。では没入と乖離の違いとは一体どのようなことでしょうか。私は次のように表現したいと思います。

 

没入とは「意識が夢のような現実を内包した世界」であり、乖離とは「夢のような現実が意識を内包した世界」だと。

 

 まず、「没入する子供」と「乖離する大人」それぞれの意識は共通して「現実を夢のように見ている」状態と言えるでしょう。しかしその「夢のような現実」は「意識」との関係において異なっています。

 

 「意識が夢のような現実を内包した世界」(没入)とは、文字通り夢中になっている意識のことです。ここでは現実が「ありありと」その姿を現します。そこに外部はありません。また世界認識の定まらない子供というモチーフに端的なように、それは「意味の生成」という側面もになっています。(他人の見た夢の話がつまらないのは、他人にとって「ありありと」現れた意味が私たちにとっては別の体系で、つまり「ふつうの現実」の相のもとに理解せざるをえないからでしょう。)

 

 「夢のような現実が意識を内包した世界」(乖離)とは、既に醒めているにもかかわらず「夢を見る」経験を現実に読み込み、その中に自己を位置づけるような意識のことです。そこではあたかももう一度そこから醒めることが出来るかのように現実世界の内的根拠(現実味)が希薄になります。また世界認識の成熟した(と本人が思っている)大人というモチーフとの結びつきは、「意味の消失」という側面をになっています。

 

 普段の私たちの生活は、「現実」に対するこの2つの態度の中間にあると言えるでしょう。程度と頻度の差こそあれ、私たちの生活は2つの態度の間で揺れ動いています。いやむしろこの2つの態度こそが日々の生活を支えているのかもしれません。少なくともシャルダンの眼には、市井の人々のこうした営みが興味深く映ったのは確かでしょう。当然ながら共感をもって。

 

 ここであらためて「没入」と「乖離」それぞれの絵を見直してみると、そこには描かれた人物の主体らしきものの寄る辺なさとともに、意味の生成・消失を伴うような他者の意識とその限界が示されているように思います。

 一方で、本来このような意識の限界とは当人にしか経験され得ないものです。いや、正確には「当人にしか経験され得ず、しかも事後的にしか意味を与えられない」ものというべきでしょう。夢が醒めて初めてそれが「夢だった」と認識されるように。そのプロセスがあってこそ他人の状態をも「察する」事が可能になるのです。しかし、この「当人でさえ事後的にしか認識し得ないものを今目の前にいる他人に重ね合わせる」とはいかにも不完全な了解の仕方だと言わざるを得ません。だからこそ、描かれた「他者」の意識を見出す際、(前回のコラムで「主体の明滅」と表現したように)それを観る私たちの意識の限界も揺れ動くことになるのです。ここで描かれた人物たちは私たち観者と同じように「没入」したり「乖離」したりする隣人であることは、まさに「描かれたものを読み取れること」と等しく了解されてはいますが、まさに「没入」したり「乖離」したり出来ることにおいて隔絶された「他者」なのです。そこに示された他者の意識の限界を私たちが理解出来き、それが却って私たち自身の足をすくうような矛盾を、シャルダンは見事に捉えています。

 他方で「没入する子供」や「乖離する大人」たちの振る舞いは、私たち観者が絵を観る経験になぞらえられているとも言えるでしょう。他者が「描かれた通りに」理解できること、あるいは「描かれた通り」にしか理解できないこと。画面を通して意味が生成したり消失したりするような経験は、シャルダンが絵を描く際の、そしてそれを観る際の、何にも勝るリアリティだったのだと思います。そのことは次の絵に表れています。

 

買い物帰りの女.bmp

 

《買い物帰りの女中》という絵です。大きなパンと羊の足が覗く買い物袋を抱えた女中は、たった今家に帰ってきた所でしょうか。彼女の視線は画面の外に向けられており、疲労の跡とともに安堵したような表情が伺えます。画面左に開けた隣室にはもう一人の女中と給水器が描かれています。

一見すると、画面の外に向けられた視線や未だ労働の余韻を残すその身体から、乖離と呼べそうな彼女の意識が垣間見れるように思えます。

 

 ここで前回のコラム《シャボン玉》で見た平行線を用いた構成を思い出してください。

 この絵でもシャルダンは意図して画面に平行線を作り出しています。隣室の給水器の「くの字」の輪郭線と、女中の体の右側、同じく「くの字」の輪郭線がそれです。そしてこの平行線の相似関係を強調するように〈給水器の蛇口〉と、〈サイドボードの鍵/2つの瓶〉とが関係付けられています。

 サイドボードの鍵は給水器の蛇口のツマミを思わせ、不自然に配置された2つの瓶(栓がされ直立した瓶と横倒しになった瓶)は蛇口の開閉機構を連想させます。

 乖離する人物を描いたかに見えた画面ですが、この相似関係に注目すると事態は一変します。

 

 2つの平行線による平面化作用によって、手前の部屋から奧の部屋へという遠近法的空間の連続性は失われ、隣室が開けていたはずの矩形はちょうど漫画の吹出しのように断片化された(不連続な)空間として画面に漂っているように見えてきます。この断片化された空間では、女中の右腕に結われた赤いリボンが、不連続に漂う像に均衡を与え平面化された画面に秩序をもたらしています。その結果、隣室が開けていたはずの矩形は女中の視界に収まっているように見えてきます。画面の外に投げられていたはずの彼女の視線がこの矩形を見つめているようにも見えるのです。例えば、この矩形は彼女が頭の中で想起している像で、そこに描かれたもう一人の女中はかつての彼女自身だ、などという解釈も出来るかもしれません。しかしそこまでの情報をこの絵から得ることはできません。ここでは少なくともこの窓が彼女と関係付けられ、何らかの対象として現れているように見えるということが重要です。つまりは没入の対象として。

 空間の曖昧さから、対象の実在こそ怪しいものの彼女はこの想起されたようなイメージに没入しているように見えてきます。もしこの矩形が想起されたものなら、恐ろしいことに彼女が見ている(想起している)はずのものを私たちが見てしまっている事になります。その場合彼女の身体はもはやただの抜け殻で、私たちの眼と重なった彼女の視覚は「見えること自体」として抽象空間に漂っているような印象さえ受けます。あまりこの絵を見続けると帰って来れなくなるような気がして自分の身体に視覚を引き戻さずにはいられません。おっかないです。それにしても「自分の身体に視覚を引き戻す」とはどういうことなのでしょうか。さっぱりわかりません。本当はもう帰って来れないところまで来てしまったのでしょうか。

 

 この絵を観る際の2つの空間解釈とそれに伴う彼女の現れ方には、没入し乖離するような(意味が生成したり消失したりするような)経験がシャルダンのリアリティであることが表れているように思います。なぜなら、描かれた人物の意識の対象(非対象)が絵画のような矩形として現れており、それを支える空間の2重性はほかならぬ観者の没入と乖離なくしてはありえないからです。

 また、このような「空間の2重性」は矩形に開かれた空間をめぐる画中画としての構造も備えています。しかし、遠近法空間の解読が「絵の中の絵」の解読を保証するような、つまり遠近法の成立とその帰結としての画中画の在り方とは異なっている点に注意したいと思います。シャルダンのこの絵では、空間を読み取ることが、あくまで可能性(不可能性)として2重化されています。その2重性は描かれた人物を介して結合していますが、1つめの可能性(観者が遠近法空間内の人物を読み取ることができること)と2つめの可能性(描かれた人物が対象の矩形を読み取ることができる)は一致しないように組み立てられています。一般的な画中画のように、そもそもの画面に開けた空間を読み取れることが、そのままその中の絵を読み取れる基準になるような構造にはなっていません。

 このように「正しく」ボタンをかけちがえたシャルダンの絵からは「他者」をめぐる運動が現れるのです。そしてそれは紛れも無く「絵画を観る」ことの運動なのです。

 

 この《買い物帰りの女中》を眺めていると、ある一瞬、どこか自分の眼が絵画の中にあるんじゃないかという錯覚に陥ることがあります。文字通り「目を奪われる」ような経験ですが、同時にそれは「純粋な視覚」とでも言いたくなるような経験でもあります。

 もっとも、たとえそれが「近代の先駆」としての賞賛であろうと、シャルダンの絵画の帰結として語ることはできません。がしかし、同時にシャルダンの絵ははそれを許しもするものです。なぜなら今まで便宜上語ってきた「私たち観者」という視点はまず第一にほかならぬシャルダン自身が経験した視点であり、彼のリアリティは「理解し得ない」他者という風景によって支えられているのですから。

 

 ようし、ここはやはり冒頭に立ち返り、「美味しいね~。」と微笑みかける恋人に言うべきことを言うべきなのだ。

その瞳の奧の無限遠点に向かって・・・今なら言える!

 

So Tasty.

 

 

つづく

 

 ジャン・シメオン・シャルダンは18世紀フランス、美術史的にはブーシェ、フラゴナールなどと並びロココと呼ばれる時代様式にくくられる画家です。室内装飾に代表されるような華麗繊細な曲線美や、愛だ恋だといった開放的で軽快な官能性が尊ばれた時代にあって、シャルダンは慎ましい庶民の生活を題材としながらも、当時の権威である王立アカデミーをはじめ宮廷社会にも広く受け入れられた画家でもありました。また、彼の静物画に見られるような極めて簡潔な画風は、セザンヌやマチスら後続の画家にも影響を与え、絵画の近代性とともに語られることも少なくありません。とはいえ、シャルダンの芸術を語るにあたっては、多くの作家同様、その個別性・例外性をこそ尊重すべきでしょう。個々の作家・作品を歴史という体系に位置づけたり、社会的な関係性を読み込んだところで、決して芸術的魅力の核心を捕えることはできないのです。そういったタテヨコの網目を軽妙にかいくぐり、直にその魅力を捕まえることを第一に心がけたいと思います。結果、うまく絵画の一般問題へと着地できたなら、はにかむ程度に喜べばよいのです。

 連載コラムの第1回となる今回は2枚の絵を取り上げて考えてみたいと思います。また、せっかくARICAのHPで執筆の機会を頂いたので、「演劇性」というキーワードでシャルダンの絵画を探ってみようとも思っています。
 

《シャボン玉》-絵画の永続性ー

シャボン玉.JPG

 シャボン玉を吹く少年を描いた、ロココ的なテーマでもある「儚さや虚栄」をモチーフに選んだとも言えそうな絵ですが、まず、この絵を一通り見た特徴をまとめてみると以下のようになります。

 肩と腕で台形をつくり、窓枠の上に体を安定させながらシャボン玉を吹く少年は、彼の左手の指と鼻、垂れ下がる頭髪や脇の下から覗くシャツ、それらの奇妙な同型を反復させながら、体をまるで「物」のように絵を見る私たちに晒している。彼の口からストローを伝わり、注意深くシャボン玉に吹き込まれた息は、つかの間の落ち着きを得ているようだ。窓枠の向こう、室内と思われる場所からシャボン玉をのぞき込む少年がもう一人ぼんやりと描かれている。低く差し込む僅かに赤みを帯びた外光から、夕暮れだろうか、この場面を境にどちらかと言えばこれより前の、まだ日が高かっただろう時間を想像させる。

 ざっとこのように観察してみましたが、私がこの絵で最も特徴的だと思うのは「2対の平行線」です。

 一つ目は2本のストローの平行です。向かって左側、グラスにささったストローと、右側の、少年がくわえ今まさにシャボン玉が吹き出しているストローが形作る平行線です。しかし、よく見てみるとこの2本のストローは不思議な状態にある事がわかります。左側のストローには断面を示しす黄色い絵具が上部先端に塗られています。これは上部先端が手前、下部先端が奧という具合にストローが傾斜していることを意味します。一方、右側のストローでは上部先端(少年の口元)が奧、下部先端(シャボン玉)が手前に見えます。つまり、2本のストローは私たち観者からは平行に見えますが、実際には(絵画の中に想定されている空間では)「ねじれの位置」にあるのです。
 すべての男女関係の比喩でもある「ねじれの位置」ですが、ここでは参考までにWikipediaからその定義を引用したいと思います。

 ねじれの位置(ねじれのいち)とは、空間内の2本の直線が平行でなく、かつ、交わっていないとき、つまり同一平面に乗れないときの、2直線の位置関係のことである。

空間内での2つの直線の位置関係は以下の3つのどれかである。


平行 交差 ねじれの位置


このうち、平行する2直線や交差する2直線は同一平面上に存在する。一方、ねじれの位置関係にある2直線は同一平面上に存在しない。

 逆に同一平面上にある2直線は、交差するか、そうでなければ平行の関係にある。 だから、例えば立方体を平面で切断した場合、その断面図の各辺は互いに平行であるか交差し、ねじれの位置となる辺の組み合わせは存在しない。

「ねじれの位置」は例えば立体交差に見られる。

例えば、三角形BCDを底面とする三角錐A-BCDの、辺ABと辺CDの2辺はねじれの位置にある。

この用語は、『存在次元の異なる存在』『どうあっても交わることのない存在』を表す比喩として用いられることがある。(Wikipediaより)

 
 「同一平面上に乗れない」筈の2直線が絵画平面上に乗っているように見えるこのようなシャルダンの構成は、「だまし絵」的手法と言ってしまえばそれまでですが、こんな地味なトリックを仕掛けたところで誰も驚かないのは明らかでしょう。では、シャルダンは何故このような構成を用いたのでしょうか。
 私はこう考えます。「キャンバスという物理的な要因も含んだ絵画平面の永続性を強調すると共に、そこに開かれた視界を限定する」ためだと。
 前半部分の「永続性」とは、当然のことでもありますが、見る対象が平面上に再現・定着されていることに対する驚き(極端にいえば)に支えられています。視界の限定については、例えばこの絵の視点を少しでも左右にずらしてしまうとストローの平行が崩れてしまうことからもお分かりいただけるでしょう。視界の限定とはいっても、さほど強制力のあるものではなく、2人の少年の眼差しと同じく、観者が今にも弾けそうなシャボン玉を見るにあたっての注意力を換気するような類のものだと思います。結果的に「任意の視点・任意の時間が何故かいつでもそこにある」ということを強く印象づけています。

 二つ目の平行は画面左側の上部下部からそれぞれ伸びた植物の枝が形作る平行です。ここでもシャルダンの奇妙な描き方が目を惹きます。上部の植物は全体として青々と繁っているのに対し、下部の植物は枝が露になり、葉も黄色味を帯びて枯れかかっているように見えます。ちょうど上部の植物が時間の経過とともに枯れゆく様といった具合に。つまり時間の経過を隔てた2つの状態が同時に描かれていることになります。言うなればストローの描き方で見たような「物理的要因を含んだ絵画平面の永続性」が、画面の内部にイメージとして「既に」描き込まれているということになります。また、この植物は画面の外側から画面の内部へと伸びていることに注目してみれば、それらはシャボン玉を吹く少年たちとは別の、どちらかと言えば私たち観者の側に近いような空間(額縁のような?)に存在しているようにさえ見えます。このことも永続性への示唆を与えてくれます。

 と、ここまで見てきて、素朴な外観を纏ったシャルダンの絵画が、以外にもトリッキーな構成で裏打ちされていることに驚かれるかもしれません。しかしそれは決して「批評としての絵画」であったり、見ること・描くことをないがしろにした知の優位ということでもありません。絵具で描かれたシャボン玉は長い間(今も)割れることなく私たちの視線に応えつづけてくれます。その絵をのぞき込むと、2人の少年同様シャボン玉の行く末に思わず目を凝らしてしまうのは私だけではないでしょう。ただそれだけのことを彼なりの工夫で表現しただけだと言えばお気楽にすぎるでしょうか。
 絵画を描くという行為の危うさは、その絵を「絵として見ることができる」という前提からしか問うことはできないし、シャルダンの絵画では、あくまでそれが絵画の面白さとして浮かび上がってくるように思います。

 この絵で、もう1つだけ抑えておきたいポイントは、ぼんやり描かれたもう1人の少年についてですが、これはシャルダンの他の作品とも関わることなので次回以降にあらためて説明しようと思います。 


《カードのお城》-演劇性-

カードのお城.JPG

 トランプのお城を作ることに夢中になっている少年を描いた作品。この絵を語るにあたって「演劇性」と偉そうに謳ってみましたが、なにもこの言葉は私が考え出したものではありません。USAの批評家マイケル・フリードという人が彼の著書「Absorption and Theatricality(没入と演劇性)」の中でこの言葉を用いてシャルダンのこの絵を取り上げています。フリードはこの本で、観者の視線とその介入を前提として描かれた絵画を「演劇的」とし、シャルダンのこの絵のように、少年がトランプのお城を作ることに「没入」し、観者の視線を意識していないような(従って絵画内の空間が観者と隔絶されているかのような)絵画を「反演劇的」な絵画と書いています。そう、シャルダンの作品は「演劇的」ではなく、「反演劇的」だというのです。そもそも、この用語はフリードのモダニズム批評、とりわけ作品の自己言及性に依拠する概念だと思いますし、シャルダンを評価する際の妥当性には甚だ疑問がありますが、興味深い部分を多く含みますので、今回はシャルダンをこそ「演劇性/反演劇性」という言葉で掘り下げてみたいと思います。

さて。
まず、この絵の(私の)ぱっと見の印象は、

 おや、少年がトランプを使って何やらやっているぞ。組み立てているトランプはこの先どうなるんだろう。手前の引き出しとその中のトランプがやたらと目立つなあ。

 という感じですが、もちろんそこにはシャルダン特有の静けさが通底しています。しかし、実を言うと第一印象の「引き出しの中のトランプ」についてはもっと具体的な印象を持っています。それを書く前に、今一度フリードにご登場願いたいと思います。というのも、先に紹介した「反演劇性」をフリードはこの「引き出しの中のトランプ」に見出したからです。引き出しの中の2枚のトランプは、一方が表(ハートのキング)、他方が裏面(絵柄が見えない)をこちらに向けており、観者と絵画内部の空間を切断しているという訳です。
 なるほど。とも思いますが、この「引き出しの中のトランプ」に関して、より具体的な私の印象を申し上げますと、まず何よりも「明るい」です。そしてその明るさが全体の印象も決定しています。先ほどもったいぶった割に、身も蓋もない観察ですが、このトランプに与えられた最大の明度は、シャルダンが意図して仕掛けたものだと思います。このハイライトは「シャボン玉」のストローと同じように視点を限定する働きを持っています。シャルダンの絵は大抵、画面の外、左手前から光が差し込んでいます。外光とは違い、室内など近い距離にある光源は、対象物の僅かな位置・角度の変化で光源自身の存在を露にしてしまいます。それは事実、少年が左手に持っている3枚のトランプ、既に並べられたトランプの僅かな傾きにも適切な明暗を与えることによって際立っています。そんな光がちょうど裏面を向いた「引き出しの中のトランプ」に跳ね返り、目潰しのような効果をもたらしているのです。トランプが僅かに傾いても、視点がブレても、このようには見えないでしょう。少年がトランプのお城を崩さぬよう細心の注意を払っているのと同じく、私たちもその様子を息をのんで見守なねばならなくなるのです。さらに言えば、引き出しの左端の奥行部分の遠近法は狂っており、その奥行線は少年の手元、顔(表情)へと視線を誘っています。おまけに引き出しの取っ手は正面を向いてしまっています。この異様な引き出しは《シャボン玉》の植物同様、少年の空間よりは、私たちの空間に近い感じがします。またそれは、先にも申し上げたとおり、「任意の視点・任意の時間が何故かいつでもそこにある」ことの強調で、フリードの言うように抵抗感を伴っています。

 以上の事を踏まえた上で再度「演劇性」について考えたいと思いますが、ここではまずフリードの言う「演劇性」が孕んでいる両義性を指摘したいと思います。
 「引き出しの中のトランプ」をはじめ、まるで小さな舞台のようなテーブル上に配置されたトランプ、それらを照らし出す照明装置からは、「反演劇性」どころか、むしろ「演劇性」を強く感じざるをえません。そしてこの場合、「Theatricality」とは「演劇性」ではなく「劇場性」と訳されるべきだと思います。また、フリードが「反演劇性」の根拠とした、観者の視線を意識せず「没入している」少年については次のように問えるはずです。そもそも「没入している」と認められるのは、なぜか。答えはもちろん、没入している「主体」が見て取れるからです。

 つまり、観者の視線を周到に誘導することで、視線の介入を意識しないほど没入している少年に感情移入ができる。あるいは感情移入できるからこそ、その絵が視えることに抵抗を感じる。

 実はフリードの「演劇性」という言葉に接して、私がまず直感したのは、このような「劇場性」と「反劇場性」という区分が共振するような絵画のことだったのです。そしてその両義性は論理というより何よりもまず見ることを通して獲得されるような生の形式だと思います。「おや、少年が何やらやっているぞ。」という私の第一印象は、没入しているように見える/見えない、あるいは演技している/いないという、観者(私)と少年のそれぞれの「主体」が感情移入の作用によって明滅するような感触でした。演じるということは、そもそもそういうことかもしれませんが、それは必ずしも演者自身の能動性でのみ語れることではないでしょう。
 歴史上、男の嘘の「その嘘さ」を実証的手段を用いずに、証明した女は一人としていません。しかし証明できないからといって真実でないとは限らないのです。「女の勘」でしかわからないことだって当然あるものです。シャルダンのこの絵は、そのことを教えてくれます。

 「見ること」と「描くこと」の間に慎重に腰を据えながら、僅かな光のゆらめきに身を委ねる。この絵からは、遅筆な画家であったというシャルダンの眼差しを確かに感じることができます。

 最後にもう1つだけ。先に述べた、明滅する「私」と「他者」という対立項が多少なりとも孕む軋轢、時に「他者」を絵画平面に開かれた視点によって包摂してしまうような事態は、必然的に「他我」というリアリティを内包しているように思います。とはいえ、絵画を語るにあたって「他我」とはとても背負いきれない問題ですので、さしあたって次回は「他者」というキーワードでシャルダンの絵を見ていきたいと思います。

つづく